#01 へき地医療での経験が、私にとっての在宅医療の原点となっています。
連載:本人だけでなくその家族も支えることが小児在宅医療だと思っています
2017.09.13
へき地の診療所で始めた定期訪問診療で多くのことを学びました。
私は滋賀県で教員の父と看護師の母のもとで育ちました。母の影響もあって中学時代から漠然とではありますが医師になりたいという思いがありました。
高校時代には太陽光発電にも興味を持ちまして、大学受験は名古屋大学工学部応用物理学科と自治医大の2校に願書を出しました。
結果的に滋賀県で2名の合格枠に入り自治医大に合格できたことで、医師の道に進むことを選びました。
1985年に自治医大を卒業後、故郷の滋賀県に戻り、病院勤務の小児科医とへき地の診療所勤務を経験しました。
そのへき地での医療の経験が私の在宅医療の原点になっています。
診療所では午前中は外来診療を行い、午後は在宅医療を行っていました。その頃は、何かあったら往診に伺うというもので、定期訪問はありませんでした。まだ介護保険がなかった時代です。
しかし往診に伺っただけでは、そこのお宅のお年寄りがどんな介護をされていて、日頃の生活状況はどうなのがわからないのです。そこで、患者さんのお宅に通うようにしました。
最初の頃は、亡くなった時に来てくれればいいからと、通うことを断られたりしましたが、それでも定期的に訪問を始めると、お嫁さんがたった一人で介護をしている実態とか、そのお年寄りの日常の状況がよく解るようになってくるのです。このように家庭の中に入っていかなければ、在宅医療はできないのだなと知りました。
それからは、定期訪問を主体とした診療を始めました。その結果、村でもある程度は在宅医療ができました。
しかし当時、村には医師は私一人で他に訪問看護や介護サービスもありませんでしたから、負担は全て私一人にかかってきます。各方面に要請も出すのですが、その状態を変えることはできませんでした。
宇都宮市の民間病院で、在宅医療部を立ち上げる。
1995年に縁あって自治医大の先輩医師から、栃木県宇都宮市の民間病院で在宅医療部を立ち上げてほしい、というお誘いをお受けしました。
宇都宮には人脈も全くありませんでしたが、在宅医療を進めていく中でいろいろな方との交流が生まれ、そこでの6年間で、私の周りに在宅医療の多職種ネットワークが出来上がっていきました。これが今でも私の宝となっています。
結果的には、病院で多職種連携による在宅医療を作り上げることはできましたが、一つだけできなかったことがありました。それが小児の在宅医療でした。
小児科医は私一人でしたので、小児の在宅医療までは手が回らなかったのです。
また、組織の中で働くことにも限界を感じていましたが、それでも当時の私には開業する考えは全くありませんでした。
二つの出来事が開業を決意させる。
シスタービンセントとの衝撃的な出会い。
2001年に故郷の滋賀県に戻りましたが、同年の9月にワシントン、ニューヨーク周辺のホスピスを見学するツアーに誘われて参加しました。
9月8日に、マザーテレサがつくられたエイズホスピス・イン・ワシントンを訪問し、そこでシスタービンセントに出会いました。
その施設はエイズや生活困窮者の方を無料で受け入れている非営利のホスピスで、政府からの助成金もなく収入がゼロなのですが、経営は十分に成り立っているのです。
理由を聞くと、「私たちが欲しいと言わなくても、世界中から寄付が集まり、世界中からボランティアが集まるのです。」といわれました。
例えば、「窓が壊れていると、何も言わなくても、私が直しましょうという人が現れて、いつの間にか直っています。」というのです。私はこの話を聞いて衝撃を受けました。
思わず彼女に「私は日本から来た医師ですが、自分がやりたいと思っていることができていません。」と話すと、にこっと笑って、「あなたの目の前のことをやりなさい。そうすればあなたにとって必要なものは現れます。」といわれたのです。私にとって運命的な言葉でした。
9.11ニューヨークテロに遭遇。
二つ目は、現地で9.11ニューヨークテロ事件に遭遇したことです。
その朝ホテルからバスで、マンハッタン島のセント・ビンセント・メディカルセンターのホスピスに見学のために向かっている時に、急にあたりが騒然としだして、前方のワールド・トレード・センタービルが燃えていたのです。
最初は何が起きているのかわかりませんでした。暴動も起きていて周囲は大変な騒ぎとなっています。
そこから何ブロックも徒歩で避難して、やっとの思いでホテルに戻り、大きなテロが起こったことを知りました。
ホテルに避難していても「ここで死ぬかもしれない。」という怖い思いを何度もしました。
その時に、「もし無事に日本に帰れたら、自分の思い通りのことをやろう。」と強く思いました。