【高橋 壮芳】#01 祖父の看取りで痛感したもどかしさが、医者の道に進ませた

医学部で感じた大学病院に対する違和感

私は東京都三鷹市の出身です。当初は、医師を目指していたわけではなく、文系への進学を目指していました。ただ尊厳死や脳死というものに興味があり、当時、山崎 章郎氏の著書「病院で死ぬということ」や柳田邦夫氏の「犠牲(サクリファイス)わが息子・脳死の11日」などを読んでおりました。

高校生の時に同居していた祖父の寝たきりの介護を手伝っていました。それなりに元気だった祖父が徐々に足腰が弱くなり、その後寝たきりで臨終に至るまでの姿を身近に見ていて、家族でありながらも何もできないというもどかしさを痛感し、医者ならばその思いをしなくてもよいのではないかとの思いが私を医学部に進ませました。

今思えば、私が現在在宅医療に関わっている原点は祖父の在宅ケアの体験にあるのかもしれません。

高校までは地元で、大学は名古屋大学医学部へと進みました。実家は医師の家系ではありませんでしたから、それまでの私にとって医師といえば、いわゆる町のお医者さん、あるいは片田舎で一人奮闘するというイメージでした。

医学部に入って、まず最初に感じたのは、患者さんの見えない医学部の授業であったり、大学病院という雰囲気に対する違和感でした。それは在学中もずっと続いていました。

さらには大学医学部のヒエラルキーにも馴染めませんでした。このままでは自分のイメージする医者にはなれないと、ずっと感じていました。

私は、目の前にいる患者さんに対して何ができるのか、そこにこそ医師としての存在意義があると思っていました。さらには漠然とではあったものの、入学当初から無医村に行きたいという思いを抱いていました。

研修医期間は無医村に行くための準備期間

先々は無医村での診療に携わることを志していた私は、幅広い経験を積もうと思っていましたので、大学病院などでの専門の診療科目よりは、今でいうところの総合内科のような方向に興味がありました。ですから、最初から研修先はその視点で教育をしてくれる病院にしようと決めていました。

北海道から九州、沖縄まで全国をいろいろと探した結果、東京都北区の中規模総合病院を研修先として決めました。その病院では地域に根差した患者さん本位の医療に取り組んでいたからです。名古屋大学医学部の同期の仲間から見ると特異だったと思います。

研修医時代はいろいろなことを経験させてもらいました。整形外科の患者さんから、脳こうそく、糖尿病の患者さん、教育入院の患者さんまで広く一通りの疾患を診ることができました。

また、入院患者さんだけでなく外来患者さんの診療も行いました。当時研修医で外来患者さんを診ることは非常に珍しかったと思います。そこには約7年間勤務しました。

専門科を特には持っていませんが、コモンディジーズは一通り診たことがあるので、その経験が今の私にとっては非常に役立っています。

元々は外科志望であったことと、無医村では外科治療の経験も必要であると思い、その病院で3年ほど外科の治療にも携わらせて頂きました。

そこの外科はドクター同士のチームワークが良く、今でも楽しかった思い出として残っています。

例えば小さなキズの縫合から、現在の全身状態から見た手術の危険性や、術後の廃用の可能性とかも念頭においた上で治療方針を検討できるようになったことなど、その時の外科医としての経験が今の在宅診療に非常に役立っています。

ちなみに、同じ法人内にある新百合ヶ丘あゆみクリニックの院長は研修医先での同期で、当時からいつか一緒に診療所をしたいと話し合っていた仲間です。

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坂本諒 法人 役職

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あえて治療をしないという選択ができることも、在宅医の条件だと思います。

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