#04 それぞれに違う患者さんの意思を尊重し、その都度受け入れることが最善の医療です。
連載:開院以来25年以上、 高齢者と認知症の在宅診療で地域住民のための医療に取り組む。
2017.10.16
これからの在宅は、家族を当てにしない在宅です。
最近強く思うのですが、「家」とは何なのか?「家」とは人と人が繋がりあう空間だと思うのです。そして生活の匂いのする場所だと思うのです。
たとえばそれは、家族でなくても他人同士でもよいのです。本人にとって居心地の良い、生活のある場所こそが「家」だと考えます。ですから人と人とが繋がりあえない場所は、「家」ではなく施設です。
これからの在宅は、家族を当てにしない在宅です。
何故かというと、これからの世の中は、その人たちが帰る場所が老々家族や単身世帯ということが一般的になってくるでしょう。帰っても一人だから帰せないとなると、誰も帰せなくなってしまいます。
ですから、在宅は自宅に限らずとも、共同住宅でもよいわけです。もはや家族の理解や協力が無いと在宅に戻せないという考え方は通用しなくなっています。
独居とか孤独死と言葉はやめたほうがよい。
日本では独居高齢者とか独居老人という言葉を使いますが、そこには同居家族を前提とした家族主義からくる差別的で軽蔑した意味合いを感じます。
独居とか孤独には家族愛もない悪い感じがします。これからの社会を考えれば、その使い方はもうやめたほうが良いと思います。
孤独死という言葉もありますが、それも福祉先進国のヨーロッパでは当たり前の話です。ヨーロッパ社会では成人した子供は家を出ます。ファミリーといっても夫婦だけです。それが家族なのです。伴侶がなくなれば一人が当然で孤独死・一人死も当たり前なのです。
例えば、デンマークでは「高齢者は介護の対象ではなく、生活の主体である」という提言に基づき、それまでのプライエム(高齢者施設)からプライエボーリ(介護型住宅)へと変遷しました。
スウェーデンでも、老人ホーム、ナーシングホーム、サービスハウス、グループホームなどの施設はすべて「高齢者特別住居」という言葉に統合され、住宅政策と医療政策との関連の中で、「高齢者特別住居」は生活の場となり、高齢者が介護度に応じて施設間を移るという制度で、本人が死ぬまで住み続けられる制度となっています。
つまり本人が主体者の生活を前提とした住宅政策に主眼が置かれているのです。日本が進めるサ高住のような所謂「箱作り」政策とは根本的に違っています。
それぞれに違う患者さんの意思を尊重し、その都度受け入れることが最善の医療です
通常のカルテには、患者さんの身体所見しか書かれていません。ですから、身体所見しかなければ、最善の医療とはそれに対する判断能力と言えるでしょう。
しかし、一人の患者さんの背景には身体所見だけでなく、家族環境、社会環境、社会的要因など全てが含まれています。それらを踏まえて終末期までも含めたベストな判断することが最善の医療には必要だと思います。
同じ身体症状であっても、患者さん一人一人への判断は全て違ってきます。勿論ご本人の意思確認も一番大事です。
私は究極のオープンシステムだと思っているのですが、医療の判断で大切なことは、その時々に応じて変化する患者さんの意思を尊重し受け入れるということです。
治療を受けたくないと言っていた患者さんが、2,3か月後に治療してほしいと変わることもあります。それを受け入れるということです。
ですから最善の医療とは、固定されたものではなくその都度変わるものとも言えます。
何もしない時もあれば、徹底的に治療する時もある。患者さんの治療方針が決まれば、その先の未来図を予測し、医学的なアドバイスやベストな選択肢を明示するのは我々の責務です。
但し、決めるのは患者さん自身です。そこでの強制はしません。
坂本諒 法人役職