#01 医師として病気に立ち向かうことを理解させられた、ある患者との出会い

リウマチ・膠原病の専門クリニック

平成18年6月に開設した「世田谷リウマチ膠原病クリニック」。

その名の示すとおり、リウマチ・膠原病を専門として、大学病院など高度医療機関と同等、もしくはそれ以上のリウマチ・膠原病の最先端治療を行っているクリニックだ。

「研修医としてリウマチ・膠原病と出会いましたが、正直に言うと、最初はリウマチの診療や研究にあまり興味を持っていませんでした。」と笑いながら話し始めた吉田院長。

それではなぜ、リウマチ・膠原病の専門クリニックを立ち上げ、運営するに至ったのだろうか。

漠然と医学部に進み医師国家試験を受験

吉田院長は、曾祖父や父親が医師という家庭に育ったが、大学受験まで特に医師という仕事を意識したことはなく、大学は建築系を志望していたという。

吉田氏:「建築学部にも行きたかったけど、聖マリアンナ医大しか合格しなかった(笑)。」

医学部に進学したが、時代はバブル期だったこともあり、サークル活動や学生での起業などに夢中になったりして、医師という職業について具体的なビジョンも描けないまま卒業し、医師国家試験を迎えたという。

吉田氏「思い返すと、今でも非常に反省しているのですが、当時は、自分には医師以外の可能性もあるのでは?などと漠然と考えながらも、しかし将来の目標もはっきりとしないまま医師国家試験を受けました。その頃の私は医師という職業を軽く見ていましたと思います。」

ターニングポイントは二人の人との出会い

 今の吉田院長の医師としてのターニングポイントは二人の人間との出会いだったという。

一人は、同クリニックで漢方内科医として勤務していた山本医師の存在だ。山本氏は、大学時代からの親友でもあった。

医師国家試験には受かったものの、その後、どの〝専門〟に進むかを決めかねていた当時の吉田氏を、山本医師が自らも進んだ〝リウマチ内科〟へと誘ってくれたのだ。

その後も西洋医学を軸に補完代替医療を含めて患者さんを診察する診療視点、クリニックの運営やライフスタイルなどに関しても、山本氏から強い影響を受けてきたという。

 友人・山本氏の勧めでリウマチ内科に入局した吉田氏だったが、リウマチ膠原病の診療や研究は難解で、当初はなかなか興味を持つことができなかったという。

吉田氏:「今から20年くらい前のことです。ある患者様と出会ったことが、私が医師の仕事に目覚めるターニングポイントとなりました。

その患者様は、研修医でしかない私を、ちゃんと一人前の医師、主治医として認めてくれて接してくれたのです。

その患者様は、皮膚筋炎に間質性肺炎を合併する難病をわずらっており、急激に呼吸不全に陥って、人工呼吸器を付けるまでになってしまいました。」

この時に経験も知識もなかった吉田氏に対して、当時医局講師であった山田医師が治療だけでなく、患者様を診る医療の基本までも教えてくれたと話す。

「残念ながら患者様は改善と増悪を繰り返して、最後には亡くなられましたが、このときに患者様の話しを丁寧に聞いて所見をとり、難病を治療するために文献を調べて、世界の最先端の治療法と現在の自分の治療の水準を合わせるというトレーニングもさせてもらうことができました。

この患者様との出会いによって、私を信頼し、身体を任せてくれる患者様に対する医師としての責任、病態を深く考える習慣、アグレッシブな治療を実践する勇気、その医療を支える仲間の存在、努力するからこそ伴ってくる結果など、決して諦めずに医師として病気に立ち向かうということを、私なりに理解することができたのだと思います。」

「学生時代には、あまり勉強をしていませんでしたから(笑)、本気で勉強して、本気で患者様と共に病気を治そうと考えるようになりました。同時に、この患者様との経験が、自分が膠原病をやることへの迷いを消し去り、その後は『誰よりも、しっかりと、ちゃんと患者様を救いたい』という気持ちで大学病院での医師生活を送ることができました。」

吉田院長はこの出会いによって、自分の医師としての人生を〝リウマチ〟〝膠原病〟に専念していくことを決意したという。

この記事の著者/編集者

坂本諒 法人 役職

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